balailoのブログ

life and coffee

後悔してもするのかな?

後悔を残さないように行動するべき、でも行動したら後悔するかもしれない。優柔不断ぽく聞こえるが、これが今まで行動する前の私の思考である。

誰かを傷つけるのが怖くて、自分の本音を必死に押さえてしまった時には後悔した。だけど、自分の本音を打ち切って、思いを伝えたとしても、失われてしまう友情や愛情に悔やんだりもした。今まで歩いてきた道を放棄するのが怖くて、自分のやりたいことを必死に閉じ込むことに後悔した。だけど、何かを放棄して、得るものが自分の想像と全然違うときは悔やんだりもした。よく考えてみると、自分の取ってきた行動は、必ずしもある程度の後悔に導いていくのだ。

なら、「後悔する」と言う言葉は、必ずしも避けるべきなのか少し疑問に思った。そもそも後悔はどう言う感情なのだろう?事件の後に考えて、悔やんでしまうような感情だったら、それは必ずそうしてしまうのではないか?岡目八目とも言われるが、人は他人事にしか客観になれない。自分の事となると、昔の事や、もう取消のつかな様なことに当てはまるかもしれない。どうせ後悔するんだったら、もっと勇敢に生きていくべきではないか?自分がなぜ行動する理由を考えて、もし凄くやりたんだったらやれば良いし、もしキャパが超える様なことだったら、無理をして自分を押し付けることをやる必要もないし。「後悔」するよりも、自分がより良い自分になれるかを考えるべきではないだろうか?変なところで粘り強く意地はっても、結局自分の意志が消耗されるだけだから?

「恥の多い生涯を送ってきました」より「自分なりの生涯を送ってきました」かな?

PS 皆さんの意見はどうですか?

生活在politicize的世界

虽然谈论politics,特别是在这个敏感的时期,好像不是一种值得倡导的行为。但是环顾四周,个人的感觉是politics从来没有从我们的生活中消失,反而在这个特殊时期,就和病毒一样,在全球各地生长,发酵,蔓延。在头版头条处,除了日益增长的数字,总有不少的新闻和politics脱不了干系。要举例的话,最近中国和美国针对病毒来源的twitter之争,我觉得是病毒被politicize的一个典型案例。虽然自诩是个政治“性冷淡”,但不得不承认我们生活的点点滴滴,都对多少少被politicize了。

在谈利弊之前,我觉得有必要谈一谈什么是我认为的politicize。politicize就是让一个原本没有政治属性的事物,使其带有政治属性。当然光带有政治属性还不够,使其带有政治性的目的,当然还是为了推行某一项政治举措。这个例子嘛,还是最近病毒的例子,川普在病毒发起来的一开始,就把试图把它和”移民“政策,和对华关系绑定起来,他现在急着出来澄清,然后说现在的第一要务是抗击病毒,政治啥的过去了再说,嗯嗯,我看了下他十一月份又要大选,也就不太相信他的言论(话说有兴趣的可以YouTube一下川普关于言论的“川”剧变脸,真的很有意思。。。)。

好了,稍微解释了一下何为politicize,那就接着讨论一下它对于我们生活的影响吧。虽然我不太赞成现在政治家动不动就politicize,但有不得不承认有时候politicize还是很重要的。像如今的妇女权益,如果不把女性的不平等当作政治诉求来看待的话,估计也没有这么多女性,或者支持女性的人愿意发声。在承认了它的合理性后,为什么还会诞生像我这样十分反感politicize,也十分讨厌politics的人呢?

在我的理解中,political discussion从来都不是中立的。从来都有一个正方一个反方,然后正反方讨论不出结果了,但是做这个决定又很重要,那只好辩论,然后让“中立”的第三方投票。所以整个过程,我觉得带有一种暴力性,这个暴力,指的是输的一方,几乎就是带有强制性的,必须接受赢的一方的决策。所以在这个过程中,首先得保持一个就事论事的态度,而且还得提前设定双方的底线与规则,要不然一不小心跑偏了,不管是决策前还是决策后,都有可能上升到双方吵得不可开交,进而导致暴力升级。所以我认为,politics是一个很严肃的工具,是天平一根绳子两头的重物,筹码不多不少,社会才能平衡,重物太多,绳子断了,社会也就被撕裂了。

所以现在这个社会是个什么样的形状呢?什么也不多说,就看看美国带节奏般的大选,我就已经觉得整个社会的political discussion的绳子真的快断了。现在的政治讨论,真的不是在寻找平衡点,而是在试图同质化(Homogenize)“第三方”,使他们成为忠实的支持者。这些忠实支持者,主要表现为对我方阵营观点的全盘接受,对对方观点的全盘否定,不管这些观点是不是相似,或者双方的诉求是不是在某些方面是类似的。这也部分解释了为什么大选越来越讲究人身攻击,往对方身上扔泥巴了。因为在这样一种情形下,只要你作为一个“领导人”被接受了,这些狂热的选民哪里还管什么政策的事啊。反正不管通过什么政策,对方阵营的人没有好果子吃就ok了,使用暴力,欺压对方,这种爽感和校园凌霸没有什么区别。当然问题不仅限于美国,有政治的地方,就有这种撕裂。对比西方媒体对意大利抗疫和中国抗疫的不同报道,对于詹小姐的言论的热烈讨论,我觉得现在已经没有多少人关心为什么我们需要“政治”这个工具,而是着重于如何占据舆论制高点,用“政治”所带来的暴力,去欺压另一方。 

失望归失望,我讨论到这里,也不是劝大家远离politics,因为正是因为我们大家都普遍厌恶,远离politics,所以才助长了现在这样一种政治形态。虽然个人改变整个大环境的能力有限,当我觉得有些东西还是可以试一试,比如从现在开始投票,或者尝试了解这个工具,抑或是和朋友在双方都保持理性的情况下,讨论政治,寻找彼此不同政治意识中的共同点。

我还是比较相信,人与人之间,虽然存在不同,但是想生活在一个安全,安定美好的社会,这个愿望是普遍的。不管存在多少分歧,应该还是回到分歧的原点,多思考一下背后的理由,这样,我想达成共识也不是一件非常难的事情。

希望未来更美好吧。与君共勉。

In time of crisis

When you walk into a random supermarket, you find toilet is paper gone, most of the emergency food is gone. You know that it has eventually came to you--- the corona outbreak. 

Needless to emphasise how serious the situation is. The number of patient is experiencing expotential growth, schools are shutting down. Maybe it is getting better in Asian countries, but it just start blooming in Europe. 

I can still remember one weeks ago (or maybe two), when the corona was not an issue in the netherlands, people were still chilling and passing information that " this is just another flu". Even when the outbreak has been officially decleared by dutch government, the reaction from people are very much polarized: some still believe it is a "flu" and refuse to aviod gathering and partying, some become hyper paranoid and try every possible measure to keep themselves safe---Some bars are still noisy, but some people trying to keep safe distance (3-4m) with evryone else surronding. And this is indeed a very ironic sene to see.  

But ing I do not mean to criticize any of these behaviour. I mean, if people do not know what to do, they will naturally follow what other people are doing. When I see other people are carrying tones of toliet paper, I cannot keep myself calm anymore. The moment when I ran to several supermarkets and finally bought toilet paper, I somehow feel safer, even though my biological side tells me it does not make any sense. I can see this " threater effect" happening on the daily basis, nobody, including people who have knowledge on dealing with virus, can escape from the fear that incentivized by our natural instinct. However, the consequense of " threater effect" is always devastating, as when everyone is trying to act in a way that maximizing their own benefit, they will naturally act in a way that harming others benefit and rights (over-purchasing toilet paper/ masks). And sometimes, it may even fuels the hates towards others who live in the same society. Xenophobia in the time of virus outbreak might be the most vivid example of this point. 

It is understandable that people are afriad of something that is unknown, but it is not an excuse to let it spread without taking any measure. In the senario of threater effect, the adsence of threater manager lead to the "race". Same thing goes to corona, governments, with no exception, choose to act when it is too late to keep it under control. When the fire does not burn to their boarder, they though they would somehow doge the situation. And I feel such navie behaviour is often seen in Western countries. They thought the boarder control/ social distanc control in Asia is against  "freedom of individual", but now they try to reach singapore/taiwan to learn how they make the information transparent and impose restriction on individuals. Until the momemt they suffer, they know it is not an "Asian flu' any more, but something we all have to fight together. 

It does not matter what kinds of measurement to take, what matters to me the most is the trasparancy of the information. For instance, Singaporean government tries to explain the current situation ( numbers of infection, symptom, measurements) in four languages to all the residence. I am not expecting the government to tell everything, but at least, let me know what is going on, how does the symptom looks like, what is the general advice to keep yourself safe. In time of crisis, I do not want to feel safe by storing toilet paper, I want to feel safe by hearing more related information and guidence.  Please stop let people deciding based on their own instinct, because we all know it will lead to a really really bad consequence. 

In time of crisis, we all have to trust each other, but not starting a fight and end up in a misery.  

 

All roads lead to Rome, but where is "Rome"?

静かになる時、時々思う。自分は今までなぜ今ここにいるか?何の為に今まで努力してきたか?自分が選んだ道は、本当に自分が望んでるものか?多分、いや、わかってる、自分にも存在危機が襲ってきた事を。

他人を観察して、意見を言うのは比較的に簡単かもしれないが、自分の事になると、やはり戸惑う時がある。今日の服は青か赤か、朝ご飯はお米がシリアルか。自分は自分を見る事ができないから、他人の意見を求めてしまうけど、でも自分の中で自力で選択したい部分もある。時々意地貼って、他人の意見と真逆なものを選んでしまうけど、そのあとはやはりその意見を聞いた方がよかったと後悔するときもある。迷うのも、意地を貼るのも、多分自分が結局何が欲しいかが分からないからと思うが、けれど、逆に何が欲しいかがわかれば、こんなに苦労する事がないと思った。

自分の心に従おう、自分の好きなものを選ぼう。このような意見は何回も聞いた事がある。だけど、そもそも本当に長く好きでいられるものはあるのだろうか?たとえあったとしても、それを続けていく資源は自分にはあるのだろうか?それを自分の本業として稼げる自信はあるのだろうか?

そう思うなら、普通の仕事をして、自分を養って、一生生きていけばいいじゃないか?親の期待、家族の責任、全て果たして、それなりマトモな生き方を選べばいいじゃないか?そもそも、今の現状をひっくり返しても、何が変わるのか?時間は流れていくし、社会は今のまな動いていくし、自分が努力しても、どうせおんなじ結果になるから、そんなところに力をかけるより、社会の期待通りに普通に生きていくことは最善の選択肢ではないか?どうせ自分は普通な人間と言うことはとっくにわかっているけど、やはりどこか自分の思い通りに反逆したい部分がある。自分はこの世界にきたのは必ず何かの意味を持っていて、何かを変える力があると信じてみたい。その何かを探してみたい、自分を捧げても求めたい何かを。

どっちにしろ、やはり最終的にはローマの定義に戻ってしまったが。どうすれば、自分のローマを探し出す事ができるのだろう?そもそも、ローマにたどり着くことは、最終的にローマにたどり着くべきだろうか?それともローマを求め続ける事自身だろうか?今はこれに答えることはできないし、将来も多分できないだろう。

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Road to Rome

 

転ぶ権利

上手くなるには転ぶしか無い、でも転ぶのは情けない。このディレマに囚われてるのは、恐らく私だけでは無いと思う。

小さい頃は、もっと素直に転べて、立ち直れた。泥まみれな時や、自分を怪我させた時もあったが、そのおかげで色んな事ができるようになった。泥団子を作る事や、木にのぼることや、初めてのカレーを作ることは、今から見ればとんでもない事だが、あの時は本当に悩んだ事で、出来た瞬間の喜びも凄く大きかった。

転ぶのは情けない、いつも慎重で優雅に歩くべき。人に弱みいを見せてはいけない、一番優秀な自分を他人に見せるべき。誰からの教えか分からないが、大人になってから、こう行動するべきといつも言われる。失敗するたび、自分を責めたりして、情けない感情が心をまみれて、だんだん失敗するのが怖くなってしまった。怖いのは、転ぶ時の痛みではなく、泥まみれの自分が、他人に見下される事だ。他人の目に写る自分、それが怖くて、そのイメージを維持するために、多分私たちは転ぶ以上の苦しみを抱いてきたと思う。他人ではなく、まさに私たち自身が、他人の目を気にしすぎて、転ぶ権利を放棄してしまい、転んで立ち直る喜びを放棄してしまったのだ。

転ぶ権利は誰にでもある、転んで立ち上がる時間も、誰にでもある。転ぶことは、努力してる証だと思う。一生懸命に動こうとしない限り、バランスは崩れたりはしないからだ。だが、そのバランスが崩れないと、変化は起こらない。新たな高さにたどり着く前は、トライとエラーで振動が起こるはず。それは避けられない、むしろ避けるべきではない。次はどうやって転ばないかを考えるだけではなく、なんで転んだか、次転んだらどうやって立ち直るかも考える必要があるはず。慎重に行動する事には間違えはない、でも、慎重すぎると、トライとエラーの振動を起こす事が出来なくなる。振動が無い、一定のバランスを保つのに精一杯な人生を歩んでいくと、今よりずっといい自分と出会う事が出来なくなるだろう。

だから、転ぶ事を避けないようにしよう。転んで、必死に痛んで、悩んで、でも、その傷が治ったら、新しい自分に生まれ変わると信じて。

 

 

強さとは

もしかしたら自分の片思いかもしれないけど、本当の強さは、単純の力の強さではなく、周りの人にもポジィティブに影響できるような強さだと思う。最近時々感じたことは、優越感で人を見下す人は本当にやばい人だと思う。それは人の本能として認識して、正当化してる人もいるが、私はその優越感から生み出すのは、単純な薄い自己満足だけだと思う。自己満足ということは、自分の本当の状況を見ず、単純に他人より少し強ければそれでおkということだ。

そういう人は

1。他の人の(特に自分より下と認識した人)の意見を聞けない。ーー>自分の進歩につながる意見を見逃してしまう。

2。自分の現状に満足ーー>もしもその満足が崩れたら、嫉妬や、不満で誰かにその不満を当てる(例えば自分より下たと認識した人に超えられたら。

3。いつも自分より能力の下の人を探し、くだらない優越感を示す。ーー>自分がどうやってもっと強くことを考えず。

結果として、自分として進歩できず、周りにもプレシャー掛けつつ、唯一残るメリットは、薄い優越感だけだ。

そんな人になりたく無い。自分の力で、他の誰かをポジティブにさせたい。誰も最初っから強く無い、見上げるような存在を見つけ、初めて強くなりたい、他の人を強してあげたいと思い始めるからだ。強さは自分が所有するものだけど、それを共有できる程持ってるということは、その人は本当に強い人という証明では無いかな?

今は無力かもしれないけど、そうゆう、太陽みたいな人になりたい。

 

結局、君は君を愛する気あんの?

夜の町を彷徨い、何も目的もなく、だたひたすらに歩いてるだけ。

さっきまで何をしてたっけ、確かに誰かと嬉しそうに話してた、甘い言葉を交わしてた。だけど、なぜか、その言葉を繰り返すたびに、心が痛く感じる。カッコイイと思われたく、結局自分の思う言葉を隠し、相手に合わせるように話してしまう。相手が笑うたびに、自分もそれに合わせて笑う、まるで、自分の存在の意味は、相手を笑わせる為にあると感じてしまう。

二オンライトに包まれた町は、夜遊びの人たちで溢れている。普段より洒落てる格好をしてる人人々は、繋がりを求める為に、この夜の街に出かける。孤独で惨めな自分を隠さないと、自分と繋がりたい人は現れない。そんな繋がりは蝋燭の様な温もりしか得られないが、それは冷たい夜を一人で過ごすよりはましだろう。さっきまでも、自分は火の虫の様にその蝋燭に飛んでいくつもりだった。酒のイキヨイで、本性が出たのだろうか?その場を去って、この町の中で目的もなく歩き出したのは。

夜の風は心地がいい。なぜだろう、さっきまでは寒く思ってたけど、今は丁度酒が冷めるほどのchilling. 二オンライトとはどんどん遠さがってる、とある距離から見ると、泡色の夢みたいに見える。鮮やかで、手にととかない夜の夢の様な。現実逃避が終わり、今は現実の世界にいると言うことだけど、別に悲しくはない。夢の中で誰かに愛される事は、儚い夢でしかなく、一瞬で過ぎてしまう。今は、この現実には、自分しかいないけれど、その自分を自分で愛する事はいくらでもできる。自分は自分をどの様に見つめてきたんだろう?自分より、誰かにその温もりを譲ってくれるのを、僕はずっと待ってたのかもしれない。だからだろうか、その温もりの為に、本当の自分を取引に使ってしまった。

今は、本当の自分を心から愛したい。自分の心中に、愛という光を付けてみたい。蝋燭にも叶わず、小さく、暖かかくはなが、星の光の様に、いつもそばにいる、その安心感が、温もりではないかな?

夜の町は相変わらず賑やかだ、今日は少し観客になる気持ちで、僕は少し彷徨うペースを落とした。

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Jazz rock を聴いてしまって、今は少し洒落てる気分です。これがそれを聴きながら書いてしまったものです。夜の彷徨いをテーマとした曲は人を不思議な気分にしてしまいますね。。本作は誰とも関係なく、単純な妄想の産物です。