balailoのブログ

life and coffee

人生は理不尽なゲームだ

今際の国のアリス」を見た人は少なくないと思います。私は普段サバイバルゲームを主題とするドラマとかには興味がなかったのですが、このドラマはそれを少し変えました。

なんで私はサバイバルゲームに興味が浮かばないというと、これらを主題とするドラマや映画は、ただの殺し合いになりがちだからです。「今際の国のアリス」の独特な部分は、人の死にフォーカスするのではなく、生きていく人の心の戦いに注目している部分です。訳もわからない、理不尽なゲームに巻き込んだ人達が選んだ道が、このドラマの見どころだと思います。強い意志を持って生きる人、ただ生きたいと思ってそのまま生きる人。。。そして理不尽な世界に耐えられず、自から命を絶つ人。あんな世界では、生きるも死ぬも合理的な選択。むしろ、生きる事は、死ぬ事より何百倍勇気がいる事だと思う。

よくよく考えてみると、私たちの世界もそうではないのかな?私たちの人生も理不尽ないゲームじゃないのかな?私たちは長い人生の中で出会うことを選べない。戦争、病気、事故。。。の中で、私たちは自分の大事なものを失う、自分の愛する人を失う、時には、人生というゲームに立ち向かう勇気を失う。絶望と戦うことは決して容易ではない。そのなかで、次のステージに行く人は、絶望のなかで希望を諦めなかった人だ。

この理不尽の世界で生きる意味はあるのだろうか?小さい希望を抱えながら生きる意味はあるのだろうか?人はいつも生きる意味を人生に問うが、結局答えが知らないまま、人生を生き続けている。

生きる意味が見つかったらいいけど、でも、生きることに本当に意味が必要何だろうか?私はこの質問の答えを知らず、今まで生きてきた。

 

もうすぐ春が来る、君のいない春が

三月三日、ちょうど桜が舞い落ちる頃、私はまた卒業しました。

三年間弱オランダで暮らし、これからも仕事で滞在するつもりです。これからは、大学でも、研究室でもない社会人の生活が始まります。私の人生の歯車は、再び回り始めたのです。

新生活にはワクワクしますが、少し寂しくも感じます。それは、毎日のようにそばにいる友達も、あっという間に卒業し、それぞれの人生を歩き始めたからです。新しい始まりは、新しい別れでもあると実感しました。

当たり前のような景色が、ガラッと変わってしまいました。頑張って築きた関係な、一瞬で失ってしまいました。その人絆が切れるわけではないけど、違う道を歩み出せば、またいつどこでまた会えるかがわからなくなってしまう。人生は旅だから、いつかは別れが来るとわかっうているけれど、でも、今まで一緒にいた君達と別れることには、とても悲しく感じる。

そうだよね、これは、旅人である私が選んだ人生だもんね。時には選択し、時には流されて辿り着いた行先には、新しい経験や、関係が待っている。でも、また旅を始める時には、記憶以外に何も持っていけない。でも、私は旅を続けるしかない。限られた人生で、いろんなことを経験したいから、自分がどこまでいけるか試してみたいから。これは私が選んだ人生だから、自分の信じることを貫き通して、歩いていくしかないから。

でもやはり、僕の心の底では、君がいない春に少し悲しみを感じている。

 

 

 

 

愛することとは

私は人を本当に愛せるか?愛が誰かを傷ついたり、愛によって傷つけられたり。愛情がなければ、自分は自分らしく生きていけるのに、愛情のせいで、自分は自分になれなくなってしまう。

なぜ人は愛情を求めるのか?神話や歌詞の中に描かれたから、人々は憧れているだけなのかもしれない。禁断の果実だからこそ、その赤い色が、人をより誘惑しているだけなのかもしれない。本当に経験した人からすると、愛情は毒薬で、人の理性を破壊して、心を余計に鼓動させるのに。

毒薬ではない愛情は存在するのだろうか?お互いのことを励まし、支え合い、狂わせない愛情は存在するのだろうか?おだやけで、時にはつまらない愛情は存在するのだろうか?その理想を抱えている自分がいるが、これは幻想なのだろうか?

ただし、今の自分に教えたいことがある。それは、自分の愛情理念を消して曲げないことだ。友達を選ぶ権利があると言うことは、愛情を選ぶ権利も存在することだ。選ぶことは、自分の原則の元で選択し、時には感情が混ざってしまうことがある。だが、消して曲げてはいけない、自分を妥協して、愛の罠にに落ちてはいけない。

愛することは、自分のだけではなく、相手の人生にも影響を与えるから、決して狂った愛なんて、いらない。

 

 

 

Limping towards ?

I went every direction in the darkness, opened every door I can open.  

 

I fight with invisible beasts, I wounded myself.  I made myself stronger, but I am still limping in the darkness.   

 

Where is the light? When I am finally out of the wood? How long I have to persist?

 

Before the morning arrives, I shall light myself up like a torch. 

 

But, who will see this light in the endless darkness?

 

And where is this light guiding me to? 

 

コロナ禍中は本当に禍だったか?

「コロナがもうこんなに続いたのかって」思った瞬間に書いたブログです。

実際にコロナにかかったわけではないが、コロナに人生が大きく影響されたのは事実だと思う。初めての失恋、初めて就活での敗北、初めての鬱病、、こんなストレスを一年の中に集中的に体験するのは、多分今までの人生の中で初めてだと思う。コロナ禍は、私に「人生は甘くない」という言葉の意味を思い知らせた。

辛い事を一通り経験して、悲しい思い出をたくさん増やしてしまったが、なぜか「全てが悪い」と結論には至らなかった。人生は不思議なものだ、白でも黒でもなく、その時の気持ちや価値観によって物事の見え方が変わってしまう。例えば、鬱病の経験したからこそ、自分はメンタルケアを無視してきたことに気づき、自分を大切にできるようになった。苦しみは人をドン底まで落とすが、諦めずに待てば、時間は人を救う蜘蛛の糸を投げてくる。

何十年もたって振り返れば、コロナ禍は自分にとってどのような経験になるんだろう?多分その時は、今困って、迷って、でもなんとかなった自分の物語を笑って語れるだろう。

怪獣になれない私

理由もなく泣いてしまう。止まることはできない、どうすれば良いかわからない。表には大丈夫なふりをしているけど、知らない内に何故か涙の湖に沈んでいる。

その理由を探している、どうして自分がこう考え始めたかはわからない。わかっているのは、自分は非常に消極的で、前に動き出せない。

誰かを助けたい、誰かを守りたい、でも、それを思ってる自分は、自分の気持ちすらきちんと整理できていない。サファイヤの王子は童話のなかにしか存在しなくって、自分がボロボロになっては、他人に幸せをもたらすことはできない。

他人の期待に応じてしまう、他人の事を助けたくなってしまう、自分がだんだんボロボロになってしまうにも関わらず。振替して見れば、自分が何故そこまでしてしまったかを考えてみると、やはり自分は自分に期待しすぎたと思う。

これを書いた理由としては、別に何かをしたいとかではなく、単純にどうすれば良いかをアドバイスして欲しい。

白日

私たちは、無意識に誰かを傷付けて、そして、誰かに傷付けられたりして来た。誰かに自分をわかって欲しいのに、他に人の思いやりすらできていない。

そして、私たちは”理解”と言う言葉に希望を失い、自分を刺まみれにしてしまった。差し伸びてくる手を拒絶してしまい、自分と、その手をくれた人の心に傷をつける。刺を植えたのは自分なのに、当たり前の様に刺を受け入れる人を求めている。でも、それは多分、自分と他人を不幸にさせるだけだと思う。

でももしも、刺を外したら、本当に幸せになれるかな?丸裸の自分を、本当に丸裸で接してくる人はいるのかな?昔自分が傷付けた人は、その様な自分を許してくれるかな?誰かが主導的に変わらないと、この悲劇の連鎖は続くのに、誰もは行動をとるのを戸惑う。

白日のしたに晒せば、本当にこの悲劇を止められるのかな?それとも、白雪の下に埋めた方が、皆んなと為になるのかな?